10月の法話集 ~人生に無駄骨折りは何一つない~


童話などのさし絵を書いておられるA先生は、少年のころ音楽家になることを夢見ていたそうです。それは近所に当時珍しいピアノのある家があり、朝夕美しい音が流れてきて、いても立ってもいられなくなるほどだったからです。
A先生のお父さんは日本画家でした。毎日むずかしい顔をして紙と向かい合っています。そんなお父さんが大嫌いだったといいます。いやいやながら日本画の手ほどきを受けたA先生は、毎日のようにこんな無駄骨折りを早くやめて、音楽の道へ進みたいと思うばかりでした。
太平洋戦争が始まると、若いA先生も中国の北部へ兵隊として出かけねばなりませんでした。そして無事終戦を迎えたものの、ソビエトの捕虜となりシベリアに送られました。厳寒の地の果てで重労働が待っていましたが、ある日Aさんたちはソビエト軍の兵士に呼び出されます。兵士たちがいうには、このなかで人の顔をそっくりに描ける者はいないか、つまり似顔絵を描ける者はいないかというのです。
だれもいません。そのとき、Aさんの心にハッとひらめくものがありました。お父さんの手ほどきが役立つかもしれない。
ソビエト兵士が要求してきたのはレーニンの顔を描くことでした。白いシーツにいく枚もいく枚もくる日もくる日も描かされました。おかげで外での重労働は許され、体の弱いA先生は大助かりでした。
あれほど無駄骨折りだと思ったことがこんなところで役立つなんて、とAさんはしみじみお父さんに感謝したのでした。そして、人生に無駄骨折りは何一つないという確信を得たのです。いまもAさんは絵を描きつづけています。



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