11月の法話集 ~ルールは何のために~


私たちが社会の一員として、あるいは組織の中の一人として生きていく以上、多かれ少なかれルールというものが必ずあるはずです。大は国の法律から、小は 各家庭のきまりまで色々ありますが、それは自分勝手な行動をされては、社会やグループの運営や規律が保てないからです。
仏教でもキリスト教でも、得度なり洗礼を受けて、正式に仏や神のお弟子になると、必ず五戒とか十戒とか言って、戒しめを守ることを、仏や神の前に誓います。これを仏教では授戒(戒を授かる)と申します。その戒律を一々ここでご紹介できませんが、たとえば、殺すなかれ、盗むなかれ、人をそしるなかれ、などとありますが、それらをことごとく忠実に守ってゆくことは、至難な技だとも言えます。そうした戒律はすべて「何々してはならない」というふうに、禁止事項ばかりです。人間は天邪鬼的なところがあって、「してはならぬ」と言われると、か えって反発したくなるものです。ですが、そもそもルールというものは、グループを統制していく以上必要ですし、それを守ることによって、さらに個々の力量 や才能をよりよく発揮させ、伸ばすものでなければならないはずです。
仏教の戒律は、一見、実に厳しく、禁止事項ばかりで、これでは圧力で抑えつけ封殺してしまうだけのように思えますが、本当はそうではなく、その戒律を守 ることによって、自分自身に磨きをかけ、鍛えあげて、一歩一歩成長させていくための、いわば肥料であると言ってもよいでしょう。
いかにすばらしい宝石でも、磨かなくては光は出ません。それと同じで、人間の心も戒律やルールという物指しに当てはめて、磨き鍛えあげなくては、どんな優れた才能をもっていても、発揮されずに終わってしまいます。
要は人それぞれの受け止め方一つで、磨き鍛えるために努力発奮するか、へこたれてしまうか、そのいずれかでしょうが、さてあなたは、ルールというものをどう受け止めているでしょうか。



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