11月の法話集 ~誰もが一度は転職を孝える~


私の好きな句に「投げられたところで起きる小法師かな」というのがあります。
縁起達磨のことを起き上がリ小法師とも言いますね。どこへほうリ投げられても、そこで起き上がり、"私はこんなところは嫌だ" "ああいうところへ投げ てくれ" などとは言いませんね。たとえ泥の中であろうと、雪や氷の上であろうと、与えられたところをわが往み家として坐りこんでいます。私たちの人生にもこの「坐り」がほしいですね。
人情としては誰だって貧乏より金持ちのほうがよい。誰だって失敗するよりは成功したほうがよい。悲しいとき、苦しいとき、他人の職業のほうがよく見え、他人の生活がうらやましくなり、逃げ出したくなるときもあります。しかしどんな人の上にも、長い一生の間にはどんなに働いても、その日食べるものにも事欠くような時もあります。どんなに病気は嫌だといっても、生身の体を持っている以上病まねばならない日もあります。
仏教詩人で、四国においでになる坂村真民先生の詩に、「病が また一つの世界をひらいてくれた 挑 咲く」というのがあります。
死線をさまようほどの病気に何度もかかられた先生が、その病気にかかる度に、今まで見えなかった世界が見えて来、気づかなかった世界に気づかせていただくことができたというのですね。
このように病気に手が合わさったとき、病気はもはや悲しいこと、不幸なことではないばかりか、財産にさえなっているのです。
悲しいとき、苦しいとき、助けはないか、逃げ道はないか、もっとよい世界はないかと、キョロキョロせず、むしろ大手をひろげて「ようこそ」と受けて立ち、「病気になったお蔭でこんな生き方ができた」「こんな人生の展開ができた」というような生き方がしたいものです。
こういう生き方を教えているのが七転ハ起の縁起達磨であり、これがそのまま坐禅でもあるのです。



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