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講 演 「400年におよぶ日蘭交流」


2000年(平成12年)8月、授業の一環(日本史実習)として、ブレケンス号事件の関連史跡調査のため、学生30人ほど引率して山田町を訪れた。その折に、前教育長木村悌郎先生・佐藤仁志先生を始め町の方々には大変お世話になり、皆さんのあたたかさに打たれるとともに、国際交流に積極的に取り組まれていることに感銘を受けた。その時のご縁で、今回の講演をお引き受けする事になった。

 400年におよぶ日本とオランダの交流の歴史を概観すれば、おのずから、その関係が近代を境に大きく変わることに気づかされます。日本の近代が何時から始まるかについては、常識的に、明治維新からとすると、ペリーの来航あたりからが過渡期ということになります。その前の270年弱が徳川幕府の時代で、いわゆる「鎖国」と「開国」にはさまれた時期です。そこで、オランダは日本にとって、良かれ悪しかれ、ヨーロッパや地球のかなりの部分を代表する存在でした。
 それに対して、近代以降の130年間にはオランダは、欧米諸国の一員ではあるが、ともすれば列強の陰に隠れがちで、時がたつにつれて日本とはむしろ疎遠になっていきました。両国が深刻な再会を果たすのは、皮肉にも、日本とインドネシア占領においてであり、その時の傷跡が現在もまだ消えずにあることは、よく知られていることです。
 今回の講演では、私の専門である、江戸時代の日蘭関係を中心にお話し、それを踏まえながら、残る時間で、今後の日欄関係のあり方やそのなかでの山田町や私たち一市民の果たすべき役割について、考えるところを述べさせていただきます。
 江戸時代の日蘭関係は、従来は、司馬遼太郎氏の言葉を借りれば、「鎖国」された「暗箱」のような日本社会の「針でついたような穴」が長崎で、そこから、「外光がかすかに射しこんでいて、それがオランダだった」(『街道をいく53オランダ紀行』)という風に考えられてきました。このような見方は、完全な間違いとは言えませんが、少なくても正解ではありません。近世の日本は、国際関係を幕府が厳しく統制してはいたものの、長崎の他に対馬・薩摩・松前の3つの口が開かれており、国を閉ざしていたわけではありません。ここ20年ほどの間に、近世の国際関係についての研究の進み方はすばらしく、その多様で活発なあり方を明らかにしてきました。それらを踏まえて、近世の国際関係の全体像を新しく描きなおすことが求められています。  それに、司馬氏のような見方は、近代という価値がまだ輝きを失っていなかった時代の、言わば高度成長期までには有効でした。しかし、欧米に追いつき追い越せの時代が過ぎ、環境破壊や社会や教育の破綻が目につき、生活のあらゆる面でグローバル化が進むという現状においては、近代を肯定する司馬氏のような見方は適切ではなくなってきました。例えば、司馬氏においては、近世の日蘭関係と近代のそれとの関連は十分に意識化されていないのではないでしょうか。  
このように、研究の現場と、研究をとりまく現代社会の双方から、近世の国際社会の見方、ひいては、日蘭関係の観方も、変わることを求められているというのが私の判断です。このような立場から、近世の国際関係と、そのなかの日蘭関係、それが近代化する際に起きたことなどについて具体的に検討し、今後の日蘭関係のあり方などについて、私の考えを述べさせていただきます。