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親子・教師の暴力・非暴力の関係


清水誠勝


 日本は過去半世紀にわたって外国と戦争をしたことがなく、お陰で平和な文化国家として国際社会の信頼を集めています。しかし、国内、家庭内の暴力ざたや争いは、年々激しさを加えるばかりのように見受けられます。
 十代の男女が親や教師に対してふるう暴力は、目にあまるものがある、といわれていますが、愛のムチなどと称して大人が十代に加える暴力も過激になってき ているようです。 現実に死傷者まで出ているのですから、世代間のこうした対立関係は他人事ではなく、わが家の問題として、真剣に双方がそれぞれの立場で 考えてみなくてはなりません。
 根本的な解決につながるかどうか、保証のかぎりではありませんが、仏教的な見かたを少々加えた暴力対策を幾つかあげてみましょう。

 まず、暴力の発生源を突きとめる。原因がわからないかぎり、治療の方法はみつかりません。子供の暴力は日常の何となく荒々しい行為から始まります。食事 のとりかたがいやに騒々しくなるとか、手回り品を荒っぽく扱うとか、そういう態度が目だってきたら要注意です。
 子供の暴力の動機は、しばしば周囲の注意を自分に引きつけようとすることにあり、孤独な孤独な子供には特にこうした傾向が強いのです。
 また、暴力の原因が家庭内にあるのか、学校・教師・友人など家庭外の人間関係にあるのか、そのあたりも探ってみる必要があります。暴力行為に何か目的が あるのか、それとも暴力そのものが目的なのか、例えば金品の要求、親の愛情やよりよい待遇が欲しいのか、自分の腕力を誇示しているだけなのか、などなど を、それとなく子供の口からうちあけてもらうことが先決です。
 暴力を封じようとする前に、子供の置かれている立場や子供の心を理解してやりましょう。非行に走る少年少女は、そう深い罪の意識を抱いていないのが普通です。
 ただ、人目につくことをしでかして大人を困らせてやろう、と考えているだけなのかも知れません。十代の殺人犯の告白によると、被害者を殺す気は全然な かったが、気がついたら相手はもう息をしていなかった、というようなケースが多いのです。テレビドラマの刑事は、袋だたきにされてもすぐに立ち上がって大 暴れして見せますが、あれがあたりまえと心得ている場合があるらしく、暴力に手加減を加える大人の知恵を備えていません。
 十代の不満に共感をもちましょう。十代は、肉体的にはぐんぐん大人に迫る成長ぶりを示しているのに、社会人としての適応性はまだ未熟で、自分の能力と望 みとの間にまだまだ開きがあります。人一倍物欲はあるのに、経済的にはまだ貧しく、欲しいものが容易に手にいりません。そういう不満が蓄積されて、折に触 れては爆発するわけです。現代っ子は何不自由なく暮らしているのに、とばかりはいえないのです。
 規則と罰と商品で子供を支配すれば、暴力行為はますます露骨になる。これが原則です。 幼いころから、親のいうことをよくきいていればごほうびを、親に 逆らえば罰を、というしつけかたを何年にもわたって押しつけられていると、周りの壁を一挙にうち破りたい衝動にかられるようになるのは、まさに自然の勢い です。
 暴力を暴力で制することは、暴力を非暴力によって制するよりもはるかに困難なことです。
 お釈迦さまに対して造反を試みた提姿(だいば)という弟子が、酔ったゾウをけしかけた、と伝えられていますが、お釈迦さまは襲いかかってきたゾウをひたすらかわいがることによってとりしずめた、ということです。
 これは、たとえ話なのでしょうが、十代の暴力に対して大人がより激しく暴力を加えたり、困惑して騒ぎたてたり、大声でなげいたりすることは、つまり、大人がまんまと挑発に乗せられたことになってしまうのです。
 あわてず、なげかず、騒がず、静かに構えて、たとえどのような暴力にも絶対に屈しない、という態度でのぞめば、いつかきっと暴力の無益なことを相手に悟らせるのではないでしょうか。
  
  

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