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我が宗教観


北田亮一


 「この頃の若いものは」と良く耳にする言葉です。一般的ニュアンスを考えて私なりにのべてみたいと思います。老年者、壮年者、それに若者と分けた場合、 老年というと誰が考えるともなく宗教的言動に耳をかたむけたいということは、人生経験を通じて自然の流れ(川の中流を大小様々な流木がただようように)に 身をまかせ、だれしも個々の身上からの一般的自然体ではないでしょうか。
 壮年者、元気に満ちあふれた形容です。人生の批判を総じて受けとめてゆく年代、責任の面からいつでも重大な時期にさしかかっている人々の総称です。
 丁度今、その年頃は太平洋戦争の前後に育った世代です。いろいろの人生を経てきて、時代の変革の中に育ち現在前三者の橋渡しを考えてゆかなければならな いとも云える重要な役目を持ったと云っても過言ではないと思います。老期を前にして新進の若者にどのようなバトンタッチをして行くか、豊かな経験を、次代 へ間違いのない足取りを如何に引継ぐか、引継がせたいか、親が子供を思う気持と同じと云えるのです。
 唯何も求めない、そして次代の子が孫がつまづきのないねがい。世代がへだたるため思う一念からの言葉こそ「今の若いものは……」という表現なのです。
 〝若さの特権〟いい言葉です。真面目に物事に取り組み、ゆく将来に光明がさがし求める若者達に老年者、壮年者は何を残してやらなければならないか。
 ある日私は、高校生になる就職、進学のため別居中の二人の子供を山田町にある龍昌寺の日曜参禅会へ連れ、初めて坐禅とゆう行を体験しました。
 兄弟二人だけで別の町で下宿生活をさせていると、親としていろいろ心配のになることは止むを得ぬことです。高校在学中は手元から学校へ通わせたいと思っ ても、種々の状況からなかなかそのとおりに出来ないのが現状で、出来ない場合に中途な子供達の精神面を考えたとき、良くも悪くも人生経験が子供の教育(し つけ)面にどのような影を与えているのか自信も持てないし、子供のしつけをどうしてやらなければならないかと考えるとき、自然に足が向いたのがお寺だった のです。
 学校のPTAの会合等で家庭教育の話し合いがあった場合等、学校の先生が云われるように、ただ学校で教えてくれるという安易な考えだけでは困る場合も多いと思います。
 次代を背負う若者へ私達親として頼みたいと言う気持の持ち方、我々がただそのせつ那せつ那だけ良ければという考えも風潮としてあったとしても、それはあまりにも無責任という一言につきると思れます。
 日本古来の神道、仏教のみおしえは個々の自覚をうながすという言葉があてはまるように思います。みおしえ、おさとしこそ世代間の橋渡しのよい土壌と考えることこそ現代の大きな課題と思えてなりません。
 無気力な無責任時代といわれてもそのことによる後悔の気持の起きるときどのように考えていかなければならないのだろうか、静かに手足を組んで皆で心にせ めてものよゆうを生じさせることこそ、仏教を土壌として皆変りのないことを願う心を結集することが出来ると信じたいのです。
(投稿下さいました北田さんは転勤のため、現在は神奈川県横浜市に在住しておられます。)
        
  

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