其の三
山田湾の津波(明治29年)調査から |
岩手日報の前身「日進新聞」の明治11年7月31日付けの記事に「寄書」があり、「東海の山田浦ハ毎歳夏ノ際天気朗晴ナル日俄然海市ヲ現シ土人此ノ海市ヲ呼 テ濱ガ回ルト云ト」この寄書氏は、「跡濱ト呼ブ處ノ昆氏ノ宅ニ遊ブ」ここで蜃気楼を見た。 「此ノ家ニ遊ベバ清風自ラ来リ盛夏ヲ知サルノ海亭ナリ偶碁友両 三輩会集シ夏日ヲ消スルノ雑興ヲ催シ楸怦(碁盤)相共ニ圍ミ一時心目ヲ一盤上ニ注ク時二階外四五漁童アリ喧シク走リ来リ指点シテ曰ク見ヨ々々今是レ濱ガ回 ルト、余輩卒然碁子抛テ起チ階端ニ就テ眺メハ其景状怡モ楼薹ヲ連ルク、又帆船幾百艘ヲ簇スル如ク、或ハ畫屏千雙ヲ開クカ如クニシテ暫時目撃スル中左端ハ稍 滅セント欲シ、右端ハ次第ニ・・・」このように見てから、「其ノ形状予カ禿筆ノ能ク記シ得ル所ニ非ズ」と。「予サキニ浮絵師ガ畫ク所ノ蜃気楼ナルモノヲ観 テ以為ク所謂海市ナルモノハ同物ニシテ名ヲ異ニスルノミ」 「因テ今其概略ヲ記シテシ江湖ノ未タ視サルモニ告ケ以テ茶話ニ供セントス」(日進新聞)。 遠 野物語106話に「海岸の山田にては蜃気楼年々見ゆ・・・」と。 さて、現代は、昭和30年代頃までは年々見た話を聞いているが・・・。 |
山奈宗真取調書(東北大学工学部・報告書5号)より
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